「誰にでもできる仕事」は無価値なのか?
こんなの誰にでもできる仕事だよ。
って言うときの「できる」の基準は、たいてい「その一瞬だけ」の話であることが多い。
その仕事をたとえば10年間、たとえば定年まで「できるの?」と言われればどうだろう。
やっぱりそれでも「誰にでもできる」って言えるのだろうか。
この記事のなかに、
「(介護は)誰でもできる仕事だから単価は残念ながら上がらない」
こんなワンフレーズがある。
たしかに介護は誰にでもできる労働だ。
介護スキルには希少性がない。
明日、両親が倒れたらぼくだって習わずとも介護するだろう。
しかし、介護の仕事をずっと続けられる人は少ない。
介護の才能がある人は、ごく一握り
これは何を意味するかというと、いま介護職についている人の大半が介護の才能がないということ。介護は誰にでもできてしまうが故に、他に何もできることのない人の終着駅になってしまっている。
がしかし、本来は介護にも才能があるわけで。
「誰もやりたがらない」と言われる介護職にも、喜びややりがいを心から感じられる人は少数ながらいるはずだ。利用者の方が快適に感じる介助をできる人とそうでない人がいるはずだ。プログラマーにハッカー級の天才がいるように、介助能力にも個人差はあるはずだ。
問題は誰にでもできることではなく、課金化できていないこと
介護と同じように、世の中の需要よりもやりたい人の数が圧倒的に少ない職業がある。それは営業職だ。営業職はビジネスにおいてあまりに基本の職業であるが故に、需要が多すぎる。
結果的に、営業に向いていないにも関わらず、営業の仕事に就いてしまっている人が世間には大量にいる。
でも、営業職においては介護職のように社会問題になったりはしない。それは営業職はお金を生み出す仕事だから。営業という労働サービスに対してちゃんと課金ができているからだ。
営業なんて介護職と同じである。誰にでもすぐできる。明日からやれと言われればほとんどの人が何とか役目をこなせるだろう。ただし、介護職と同じで上手下手はあるし、継続できるか別にすればの話であるが。
ともかく、誰にでもできるから給与が上がらないというよりは、サービスを上手く課金化できていないことに問題があるとぼくは思っている。極論、日本のおもてなし介護技術がドバイの石油王に気に入られれば、すごい高給取りに変身するかもしれない。
介護士は、心を鬼にして一度ストライキすべき
本当はやるべきだ。でも、介護の仕事につく人の性質から、助けを必要としている人を放り出してストライキを起こすことにためらいがある。介護士たちの倫理観に日本の社会は甘えている。
待遇に不満足な人たちがこんなにも多いのであれば、いつストライキが起こってもおかしくないはずなのに、そうはならない。
「誰もやりたがらない事をひたむきに安い給料で頑張るからいつまでも給料が上がらない」
ホリエモンが言っていることは、残念ながら正論だ。介護士たちのプロ意識には頭が下がるが、払わずに済むなら結局、誰もお金なんて払いたくないのが本音だろう。
元の記事にあるように、そのうち機械化されて介護士の待遇が問題になっていたことすら過去になるのかもしれない。逆に言えば、事の解決には介護が自動化できる技術が生まれるくらいには長い時間がかかってしまうのだろう。
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「介護は誰にでもできる仕事」は、介護サービスを安く買いたたきたい僕たちが、勝手につけたラベルでしかない。将来、両親が倒れたら確実にお世話になることになる介護サービスが、光熱費のように安ければありがたいと思っているのだ。