映画「コンタクト」感想|SFっぽくないSF映画
「コンタクト」は、一言で説明すると、エリート科学者であるエリー(ジョディ・フォスター)が、宇宙人との交信を試みる、という内容の映画です。
ネタバレ前提の感想なので、これから視聴する方はご注意ください。というか説明を端折って書いているので、観てない人は読んでも意味が分からないかも…。
SFと思いきや、実はそうではないかもしれない
「コンタクト」は1997年の古い作品です。
SF系の作品を探していたら、たまたま見つけて、面白そうだったので視聴してみました。
視聴前の期待感としては、「メッセージ」という宇宙人と交信する映画があって、それが割と好きだったので、それに近いものを期待して視聴しました。
結論から言うと、「コンタクト」は、SFのようで、実はSFではないかもしれないと感じた映画でした。メッセージとはまったく異なるタイプの作品です。
むしろSFと信仰(非科学的なもの)とを対比させたかった作品なのではないかと、そんなことを感じました。
実は、エリーの相手役として宗教家の男性、パーマー(マシュー・マコノヒー)が登場したとき、最初は、なんで宗教家?と、彼の存在意義がよくわかりませんでした。
でもそうじゃなかったんですね。
作品を通じて伝えたいことが、そこに込められていたのです。
「非科学的」と「科学的」の境界
エリーは科学者で、宗教のような非科学的なことは信じない人でした。
彼女は、随所でその片鱗を見せるのですが、極めつけは1回目のパイロット選定の面接の場で、パーマーに「神を信じるか」と問われて、イエスと答えなかったことです。
おそらく彼女は、ここでイエスと答えないと審査に悪影響を及ぼすことは察していたものの、頑固な性格ゆえ、自らの信条を偽ることはありませんでした。
2度目のパイロット選定で見事、被験者に選ばれたエリーは、実に奇妙な体験をします。起動した装置の力によって、エリーはワームホールを抜け、異星の地に降り立ちます。そこで父親の姿を模した地球外の存在と会話を交わすのです。
異星への旅は地球時間にしておよそ18時間。
衝撃と共に地面に叩きつけられたエリーは、自身が地球に戻って来たことに気が付きます。そしてどうやら、18時間経過したと思っていたのは誤りで、実際には装置の起動からわずか数秒しか経過していないことにも。
エリーは確かに異星を旅したはずなのに、それを証明する手段がありません。記録していたビデオにはノイズが混じり、彼女の不思議な体験を証明することはできませんでした。
彼女は自身の体験について、公の場で関係者たちから問い詰められます。
そこでの彼女の回答こそが、この映画の一番の見どころだったと、僕には思えました。
経験したのは確かです。証明も説明もできません。
けれど私の全存在が事実だったと告げています。
あの経験は私を変えました。
宇宙の――あの姿に――我々がいかに小さいかを教わりました。
同時に我々がいかに貴重であるかも。
我々はより大きなものの一部であり――決して孤独ではありません。
そのことを伝えたいのです。
そして――ほんの一瞬でもみんなに感じてもらいたい――
あの畏敬の念と希望とを。
仮に映画を見ていない人が聞いたとしても、そうとうスピリチュアルな発言に聞こえるはずです。
エリーは科学者です。それも一流の。
しかし、科学的に説明のできない出来事に直面したとき、それを他人に伝えようとすると、いかにも非科学的な表現にならざるを得ないのです。エリーの独白によって、その様がありありと表現されていました。
自身の体験について言葉を紡ぐエリーの姿は、さながら説法する宗教家のようで、科学とは何なのか、宗教とは何なのか、まったく相反すると考えていた両者が、実際には両極の関係ではないのかもしれないと示唆されているかのように感じました。
ノイズ混じりの、18時間の映像記録
本作には、最後に、ノイズだらけだったビデオについて新事実が発覚し、エリーの体験を裏付ける証拠が見つかる演出が用意されています。
個人的にこのオチが好きでした。
もしも、宇宙空間でのエリーの体験がすべてまぼろしだと解釈せざるをえなければ、コンタクトという作品の映画体験そのものが霞んでしまったと思います。
約2時間30分もある長い映画だけに、徒労感を感じずにはいられなかったはずです。
しかし、そうならなかったのは、最後の最後に、エリーの映像に「18時間ぶんのノイズだらけの映像」が記録されていたことが発覚するから。
わずか数秒で18時間の録画は不可能です。
おかげで僕たちは、エリーの宇宙旅行は真実だったのだと信じることができます。
この事実は、エリーの主張を信じたかった僕にとって、何よりの福音でした。
余談ですが、作中でのオッカムの剃刀という言葉の使われ方に違和感を覚えました。本来は、同じことを説明(証明)できるならシンプルなほうが良い、といった解釈のほうが近いと思うのですが、作中では、「単純な説明ほど正しいものである」と解釈されており、それは全然違うだろうと思いました。