小説の人物描写をガン無視して、あとで脳内補完する癖が治らない。
みなさんは、小説を読むときに登場人物の姿をどのようにイメージしていますか?
描写を頼りにイメージをふくらますのが、本来の小説の読み方だと思います。
小学生や中学生だってやっている、とても簡単なことです。
しかし、僕自身はそんな簡単なことが、どうやら満足にできていないらしいのです。
- 一冊の小説を例にあげて説明します
- ゼロから、キャラクターをイメージすることができなくなった
- アニメ絵を想像するときと、リアルな人物を想像するときがある
- 同じ作者でも、作品ごとに想像するイメージのタッチは変わる
- アニメとリアルの使い分けもある
- 服装や景色の描写を、結果的に、無視して読んでいる
- この読み方って、僕だけじゃないよね?
- 読書とは、つまるところ動画のストリーミング再生と同じ
一冊の小説を例にあげて説明します
「すべてがFになる」。
という小説。ドラマやアニメにもなったので、ご存知の方も多いと思います。
登場人物の話し方が極度に理屈っぽいので、好みは分かれますが、個人的には大好きなシリーズです。
本作の主人公は2人。
西之園萌絵と犀川創平の2人。
それぞれのキャラクターについて、小説内の描写ではこんな風に表現されています。
適当に抜き出してみました。
読んだことがない人は、2人のルックスを想像してみてください。
西之園萌絵についての描写
髪は短くストレートで、シャツと同じピンク色のイヤリングを片方にしていた。
しかし、ひいき目を差し引いても、萌絵は美人といえるだろう。
犀川は、萌絵の愛らしい口元を見て、多少機嫌が良くなった。
高級車は静かなエンジン音でみんなの前に停まり、後ろのドアが開いて、萌絵が出てきた。
萌絵が、犀川の研究室を訪ねてきた謎の美女、儀同世津子から預かったお土産を犀川に渡す時の台詞。
「すぐ帰られました。お土産を持ってこられて……、安物のお菓子だと思いますけど……」
ちなみに、萌絵は犀川に思いを寄せています。
バーベキューのシーンでは、
「へぇ、たれが売ってるんですか……」
「焼きそばって一度食べてみたかったの、私……」
こんな感じ。
だいたいイメージできたでしょうか?
犀川創平についての描写
犀川は建築学科の代表である。
犀川は、シャツにブルージーンズといういつものスタイルだったが、バッグだけはいつものものではなくボストンバッグだった。
この三日間のために犀川は一カートンの煙草を用意していた。彼は、ヘビースモーカーである。
犀川の部屋は、不愛想なスチール棚がすべての壁を覆っていて、専門書とファイルがびっしりと並んでいる。
犀川は自分の名刺を持っていなかった。
(大学に委員会がなかったら、たぶん研究は倍の速度で進むだろう)犀川は溜息をつく。
こんな感じ。
キャラクターを造形する描写は、挙げだしたらキリがないのでこのくらいにします。
厳密にはコーヒーを飲む動作から発言の一言一言の積み重ねまで、すべてが重層してその人となりを形作っているために、本当は1冊まるごと読んでくださいと言いたいくらいですが…、話を次に進めます。
描写をもとに、僕がイメージした人物のビジュアル
いかがでしょうか。
多少なりともイメージできましたでしょうか。
西之園萌絵は金持ちの女子大生。
犀川創平は建築学科の教授。
実際に読んでいると、会話のやりとりから2人とも恐ろしく頭の回転が速いことも読み取れます。
さて、僕が想像したのは、こんな感じのビジュアルでした。
なんて貧困な想像力だと自分自身に呆れるレベル。
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西之園萌絵(脳内)
犀川創平(脳内)
エヴァじゃねーか。
というツッコミは、ひとまず置いておいてですね、、、
なんで、こんなお粗末な結果になってしまったか、順に説明、、、もとい言い訳をさせてください。
西之園萌絵の場合
- お嬢様キャラ
- IQ高い
- 美人
- 勝ち気
これらの記号を併せ持つ人物をイメージしたときに、頭に思い浮かんだのがアスカでした。
この感覚は無意識で、いまここに挙げている要因は、あくまでも後付けの推測にすぎません。
ショートカットという都合の悪い描写については、無意識に無視してしまいました(残念すぎる思考の怠慢ですね)。
犀川創平の場合
- 男前をあえて台無しにしている感(素材は良いんです感)
- くわえ煙草が似合うイメージ
- 萌絵と同様に賢いが、賢さのベクトルが萌絵とは異なる
からの想像です。
こちらは、どちらかと言うと、「萌絵⇒アスカ」の想像に引っ張られた感があります。
実に貧しい想像力と言わざるをえません。
ゼロから、キャラクターをイメージすることができなくなった
「できなくなった」と過去形で書いたのは、たぶん子供の頃はできていたからです。
小学生のときに読書していたときは、きちんと描写を頼りに登場人物の顔のイメージを思い描いていたような気がします。
それがいつからか、文章の端々から読み取れる特徴の組み合わせによって「既存の何か」の絵を、そのキャラクターにあてはめて読んでしまうようになりました。
ただ、不思議と違和感はないんですよね。
今回の場合であれば、本を読んでいる間は、アスカのビジュアルを西之園萌絵として認識しており、自分のなかでそれは自然なイメージとして受け入れられているんです。
アニメ絵を想像するときと、リアルな人物を想像するときがある
小説を読んでいて、思い浮かべるキャラクターの姿が「アニメ」っぽいときと「リアル」っぽいときがあります。
すべてがFになる、の場合は、キャラクター造形にエッジが効いており、ライトノベルっぽいので、自然とイメージするキャラクターの絵がアニメ絵になりました。
しかし、これが東野圭吾の作品とかだと、ふつうに生身のほうの人間のビジュアルを想像して読んでいたりします。
これは頭で念じてそうなっているのではなく、脳が勝手に判断して処理していることです。
無意識に、何らかの基準によって、あてがわれるビジュアルが選別されています。
同じ作者でも、作品ごとに想像するイメージのタッチは変わる
さらに言えば、想像するアニメキャラの作画の雰囲気が、同じ作者であっても作品ごとに変わります。
「すべてがFになる」のシリーズでは、エヴァっぽい絵を想像しましたが、同作者(森博嗣さん)の別の作品では、まったく違う作画のイメージをしていました。
たとえば、「黒猫の三角」という作品では、
化物語っぽい絵柄をイメージしました。
なぜか?
黒猫の三角に登場する人物たちから、どことなく漂う退廃のイメージが、化物語の世界観と自分のなかでリンクしてしまったから、かもしれません。
あるいは、登場人物のネーミングの語感が似通っていたから、かもしれません。
瀬在丸紅子、保呂草潤平、阿良々木暦、小鳥遊練無。
(阿良々木暦のみ、化物語の登場人物名。残りは黒猫の三角のキャラクター)
拠り所となる感覚が抽象的だったからなのか、こちらについては、具体的に登場人物の誰かを誰かに当てはめたりはせず、あくまでも「化物語っぽい」タッチのキャラクターの絵をイメージして読んでいた、という感覚です。
この場合は、ちゃんと自分の力でビジュアルをイメージしていたとも言えますね。
ただ、頭の中に描画する想像力が足りないぶんを、既存の作品の「タッチだけ」借りてきて脳が補完してくれたのでしょう。
アニメとリアルの使い分けもある
ちなみに、作者によってはアニメとリアルの使い分けもあります。
綿矢りさの「蹴りたい背中」は、
リアルな人間をイメージして読みましたが、
同じく綿矢りさのインストールは、
アニメっぽいキャラクターをイメージしました。
(表紙の絵は全然違うんですけどね)
想像したのは「時をかける少女」みたいな感じの絵柄。
作品の雰囲気は全然違うはずなんですが…。
なぜか理由は不明です。
服装や景色の描写を、結果的に、無視して読んでいる
改めて思い起こしてみると、服装のディティールや景色の描写を、けっこうフィーリングで読み流しているかもしれないことに思い至りました。
読み流すというよりも、読んではいるけれど、正しく認識しないままに次の文章にいっている感じがします。
脳の処理速度が服装の描写に追い付いてないんです。
たとえば、
西之園萌絵は、大きなピンクのサングラスをしていた。水兵のような白いズボンにクリームと白の縞模様の小さなTシャツである。
という文章。
この場合、ぼくが認識できるのは、おそらくピンクのサングラスのみですね。
水兵みたいな白いズボン、白とクリーム色のボーダーは、具体的にイメージするところまで思考が追い付かないままに読み進めてしまっていると思います。
文字としては確かに、一度、頭の中を通しているはずなんだけど、スムーズに映像化できません。
風景や見た目の描写についての「脳内歩留まり」がとても低い。
と言っても、頭の中にイメージする西之園萌絵は、全裸でサングラスだけ着けているなんてことはなく…
不思議なことに「何かいい感じの服装をしていることになっている」のですよ。
つまり、勝手に読み流して、勝手に頭の中で補完しちゃってるんですね(作者への冒涜だ)。
僕は、この勝手な補完行為の延長に、人物のルックスを勝手に別のキャラクターに置き換えて読んでしまう現象もあるように感じます。
この読み方って、僕だけじゃないよね?
推測するに、これは僕だけがそうなのではなく、多くの人がそうなんじゃないでしょうか。
だから最近は、描写をそぎ落とした感じの文体も増えていますよね。
ケータイ小説など、その傾向があります。
挿絵のついた小説が増えている気がします(ライトノベルじゃなくても)。
具体的に商品名とかブランド名が書かれている小説を見ることも増えました。
スタバとかユニクロとか。
無理にがんばって描写するよりも、現実のイメージを拝借したほうが、脳内の映像化がスムーズになって、内容の理解度が高まるからなのでしょう(邪道ととらえる作家さんもいるでしょうが)。
「どんなカフェ?」って聞かれて、「スタバっぽい感じの店」って答えたら、だいたい通じるじゃないですか。このくらい分かりやすくないと、頭の中の映像再生が追い付かないんですよね。たぶん。
読書とは、つまるところ動画のストリーミング再生と同じ
読書慣れした人や頭の良い人は、細かな描写の一言一句まで読み取り、正しく素早く、脳内イメージを作り出すことができるのでしょう。
でも、処理速度の遅い僕は、画質を落とさなければ滑らかに読み進めることができません。
この「画質を落とす行為」=「人物の見た目を想像しやすい既存の何かに置き換える行為(簡易化)」「服装の描写について無視する行為」なのでしょうね。
テレビドラマや漫画など、描写の読み取りを不要とするメディア(目で見れば分かる)を中心に育ってきた環境も影響しているのかもしれません。
心情理解やストーリー把握などは、テレビドラマや漫画の鑑賞でも要求されますが、描写を読み解くことが求められるのは小説特有です。
知らないうちに「外見の特徴は目で見るものである」という思考の癖がつき、そのせいで、小説を読むときにも描写を無視するようになってしまう。そして代わりに自分の脳内に作り出した虚構の映像を認識して、理解した気になっているのです。
そう考えると、自分が小説よりもビジネス書のほうを読みやすく感じているのにも頷けます。
ビジネス書には「描写」がありませんからね。