障害者差別解消法は、障がい者に試練を課している。
木島氏の関連記事をみて悶々と考えました。
とりとめない感じだけど、書きます。
- 木島氏の主張は法律で認められている
- 障がい者にどのくらい配慮すべきか、基準があいまい
- 健常者には合理的配慮が求められ、障がい者には自分の意思を伝える努力が求められる
- 障がい者を、腫れ物あつかいする社会
- 無理なことは無理と、障がい者に率直に言える社会になって欲しい
- 障害を、なかったことにはできない
木島氏の主張は法律で認められている
2017年現在、日本ではいわゆる障害者差別解消法というのが施行されており、国民は障がいのある方に対して、合理的配慮をすることが求められています。
今回の件では、この法律があることを知らずに木島さんを叩いている人もたくさんいたような気がします。僕も最初は法律の存在をよく知りませんでした。
◎合理的配慮に関する内閣府の資料はこちら
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/gouriteki_hairyo/print.pdf
資料のなかに、合理的配慮について説明された箇所があるので引用します。
障害のある人は、社会の中にあるバリアによって生活しづらい場合があります。この法律では、役所や事業者に対して、障害のある人から、社会の中にあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること(事業者においては、対応に努めること)を求めています。
負担が重すぎない範囲で対応、
読んでいて「ん?」と引っかかりそうな部分については、こんな説明があります。
重すぎる負担があるときでも、障害のある人に、なぜ負担が重すぎるのか理由を説明し、別のやり方を提案することも含め、話し合い、理解を得るよう努めることが大切です。
たとえば、従業員が少ないお店で混雑しているときに、「車いすを押して店内を案内してほしい」と伝えられた場合に、話し合ったうえで、負担が重すぎない範囲で、別の方法をさがすなどが考えられます。その内容は、障害特性やそれぞれの場面・状況に応じて異なります。
障がい者にどのくらい配慮すべきか、基準があいまい
内閣府のページには、配慮の個別事例なども掲載されており、そちらにも目を通してみました。
ただ、日常の中で、各人がおかれたシチュエーションは千差万別ですから、どこまで配慮してもらうのが正当か、あるいは配慮せねばならないかの線引きがとても難しいと感じました(線引きが曖昧だからこそ、問題になってしまうのでしょうが)。
上記の飲食店の例では、混雑時には「別の方法をさがす」ことも選択肢として提示されているものの、別の方法をとるためには「話し合う」こともセットで語られています。
これ、混雑時にその場で話し合うくらいなら、車いすを押して案内しちゃったほうが速いですよね。
つまり、この場合の「話し合い」というのは、必ずしも、その場でリアルタイムで話し合われることを想定していないのだと思います。
障がいのある方が生活の中でバリアを感じたとき、そのバリアがその場で直ちに解消されるのが理想ではあります。でも、現実には難しい。
だから障害のある方は、予測できる範囲で役所や事業者に対して、事前に意思を伝える必要があるのです。
あらかじめ伝えず、ギリギリで伝えれば伝えるほど「負担が重すぎない範囲」は狭まってしまいますから仕方のないことです。
健常者には合理的配慮が求められ、障がい者には自分の意思を伝える努力が求められる
今回バニラエアの件では、木島氏は事前に連絡すると搭乗を拒否される、と考えて事前連絡をしませんでした。
伝える前から無理だと自己判断して、意思決定をしました。
この行動は、内閣府の資料に書かれていた「話し合い」を放棄している姿勢だと思います。
夫が転勤や転職について、妻に相談せず事を進めるのに似ているかもしれません。
どうせ妻に相談したら止められるだろう、だから決まってから事後報告したんだよ。というわけです。
木島氏からすれば、健常者はわざわざ連絡なんて必要としないのに、なぜ障がい者だけ事前連絡が必要なのだ、おかしい。
ということなのでしょうが、これは企業が合理的配慮を行う上で「重すぎる負担」にならない範囲で対応するためにこうなっているわけです。
JALやANAは対応してくれたとしても、格安航空会社にとっては些細なことでも重すぎる負担になり得るのだと思います。
たしかにバニラエアがバリアフリーに対する体制を構築できていなかったことは、企業としての課題でしょう。これは間違いありません。
でも、そのことと木島氏が事前連絡しなかった(意思を伝えることを放棄した)ことは別に論じられる必要があります。
障がい者は、バリアを感じたらその意思を伝えて良いとされています。意思を受けて役所や事業者は対応することが求められています。
障害者差別解消法は、障がい者に寄り添った法律である一方で、何も主張せずとも阿吽の呼吸で上げ膳据え膳とはいかないよ、というある種の試練を障がい者に与えてもいるのだと感じます。
国は、障がい者に自らの意思を主張することを求めています。自分の抱える障害についてプレゼンせよ、というわけです。そのためには、障害と深く向き合わざるを得ません。ある意味、とても重い要求です。
障がい者を、腫れ物あつかいする社会
僕は正直に告白すると、障害のある人と接するのが苦手です。
たとえば、目の前に障害のある人がいて、僕はその人とそんなに積極的に関わりたくないと思っているとしましょう。
このとき、単純に「趣味や性格が合わなさそうだから」あまり関わりたくない、と僕が思っていても、社会はそうだとは見てくれません。
あいつは障がい者を差別した!と非難されてしまいます。こういう風潮が、僕はすごく嫌いです。
だから障がい者の人に関わるのが僕は怖いし、できるだけ避けたいと思ってしまっています。
これは障がい者の人が悪いのではなくて、僕も含めた周りの意識がそうなっていることが問題です。障害者に対して変なところで過保護になっているんです。
無理なことは無理と、障がい者に率直に言える社会になって欲しい
今回のバニラエアの件で言えば、木島氏の行動は非常識だと思います。クレーマーとまでは言いませんが、少なくとも「駄々っ子」のようには感じます。
そういうときに、はっきりと「無茶いわないでくださいよ」と、障害のある人に対しても当たり前に言える社会になって欲しいです。
僕は、健常者側はすべてを無条件に受け入れる必要もないし、断ることに負い目を感じる必要もないはずだと思いたいです。
無理なことは無理と、相手に率直に言える社会になって欲しいと思っています。
そうなれば、お互いがもう一歩進んだフェアな関係が築けるような気がしています。
(一部のひとたちの間では、築けている関係なのだと思います)
内閣府の資料には、こんなことが書かれています。
この法律を進めることで、障害のある人とない人が実際に接し、関わり合う機会が増えると思います。こうした機会を通じ、障害のある人とない人が、お互いに理解し合っていくことが、「共生社会」の実現にとって大きな意味を持ちます。
夫婦がケンカするように、健常者と障がい者もお互いの主張をぶつけあっていかないと、「共生社会」は作れないと思います。
僕は、今回の木島氏のスタンスはNoだと思います。
飛行機には乗れるようにした方がいいと思うけれど、自分の欲求を相手に伝えることから逃げたのは間違いだったと思います。
障害を、なかったことにはできない
酷かもしれないけれど、障害は乗り越えることはできても、最初からなかったことにはできないものです。だから障害なんです。国から補助も出ます。
トイレに行くのに助けを借りることも、飛行機に乗る5日前に連絡が必要なのも、すべて必要なことです。生きていく上で、ショートカットできないことなのだと思います。
そして、我々健常者はそういうアクションをきちんと受け止めていく必要があるのだろうと思います。しかし、障がい者の行くところ全てに先回りして、障害などないかのように事前準備し振る舞うことまではできません。
先日、買い物していたら、棚の上にある商品をとって欲しいと見ず知らずの人にお願いされました。手が届かなかったんですね。僕は商品をとって、その人に渡しました。
別の日、街中で道をきかれました。僕は急いでいたのですいませんと断りました。
お願いする側に負い目はないし、手伝う側にも特別な感情はありません。どちらも自然なやりとりでした。助けたから善というわけでもないし、断ったから悪というわけでもありません。
障がい者に配慮することに対しても、こんな風に何の文脈も意味も発生しない社会になって欲しい。それがバリアフリーなのだと思います。